ああ…胃が痛い。重たい。
結婚して家庭に入ったと、久しぶりの再会を祝ってのビールとワインを一杯だけだったのに。
飲んでる時は良かったんだ。
お酒が途切れ、落ち着いた頃に襲って来た胃の痛みと気分の悪さ。
生理前だから、酔いが変な方向で作用したんだろうな。あと、無理して履いた細めなバミューダパンツが良くない。苦しい。
友達の家を出て、一人で歩いて、気持ち悪さと痛さに意識は集中する。駅前に着いたらもうひどい気分で、堪らずベンチに手をついた。
吐きたい訳じゃない。そもそも吐き気もない。鈍く重い痛みが、私を動けなくさせる。
胃薬を持ち歩く習慣なんてなくて、離れて見えるドラッグストアのネオンが恨めしい。少しでも胃の痛みが治まれば買いに行けるのに。安心して電車に乗れるのに。
「どうしました?」
包み込むような声。
テレビ以外では聞き慣れないイントネーションで降り懸かった気遣いの言葉と、肩に広がる温かみに顔を動かすと…丸い眼鏡を掛けた男性が私を見ていた。
その時、私は元彼が崇拝していた、あの人を思い出した。
「…ジョン・レノン…」
…と思ってしまったが、思い直した。
目の前の彼は黒髪だし、純粋に亜細亜系の顔立ちだ。
でも、私は一瞬ホッとしてしまった。やっぱりどことなく、ジョン・レノンが頭から離れない。そんな顔立ち。
「気分悪いんですか?」
あ…これは関西方面のイントネーション?
方言には独特の温かみがあるって本当だな。
なんとか頷いた。
「救急車呼びます?」
その問い掛けには首を横に振った。だけど、動けない。
どうしよう。なんとしょう。
ジョン・レノン似の男性を見つめる。
…この人、胃薬買ってきてくれないかな。
自分で動けない以上、早く解決するにはこれ以外にない気がする。
ジョン・レノン似の青年は、見捨てるなんてしないよ。きっと。
それに、ジョン・レノンに似てるこの青年に胃薬代持って行かれても後悔しない。
私、ジョン・レノンに入れ込んでるみたい。さっきからジョン・レノン、ジョン・レノンって。
多分、実際は、胃の痛みをなんとかしたくて、賭けに出ようとしてるんだ。なんだかんだ理由をつけて。
私は鞄の中で財布を探り当て、千円札を抜き取って青年の前に出す。
青年は、一瞬訝しむ様な顔をした。そりゃあ、体調最悪だと分かる女に、チップを突き付けられりゃ怪しむだろう。
「何ですか?」
「…胃薬…買ってきて下さい…」
私はドラッグストアを指差して、願いをたくす。
買ってきて、どうか。
男性は、お札を受け取り私の背中に軽く触れた。痛いのに変わりはないのに、少し落ち着く。
人の手には癒し効果があるって本当なんだな。
「すぐ買うてきますから、待っとって下さい」
そう言って、彼は上着か何かをかけてくれたらしく、控え目な温かさが肩から背中に広がった。彼を見送ると、ドラッグストアに向かって着々と小さくなっていってる。走ってくれてるんだ。
彼はベージュのチェックのパンツを履いて、それがまた見目良くて。
高校生かな。社会人だと思ったのだけど。
見ず知らずの私に優しくしてくれるなんて、少年の学校はよっぽど徳の高い教育をしてるんだろう。ありがとう、校長先生。
不意に体の内側から、どろりと流れ落ちる感覚がした。
おりものか、それとも、生理が始まったのか。余計に気が滅入る。私としては、おりものであって欲しい。
少年にナプキンも頼めば良かった。
…いやいや。それは、いくらなんでも図々しい。少年だって、ナプキンを買うのは恥ずかしいだろう。
ああ、支離滅裂。まとまらない。
肩に再び温かい感触がして「買うて来ましたよ」と、少年の声も降って来た。
顔をあげると、少年は落ち着いた表情で私を見ていた。その顔は一瞬、菩薩にも思えて心底安心する。
「助かったぁ…ありがとう…」
「ほんまに、大丈夫ですか?」
そう言って、ドラッグストアのビニール袋から、胃薬の箱を開けて一包とミネラルウォーターを私に持たせた。
キャップも外してくれている。さりげない気遣いが、涙ぐむ程嬉しい。
胃薬を飲んで、お腹を圧迫してもいけないと思い、ベンチに座った。
改めて見上げた少年の顔は、街灯による後光がさして、なおのこと神々しい。
「…これ、ありがとう…」
白と青のジャージらしきものを少年に返す。
「苦しいんやったら、無理せんといて下さい」
やっぱり隠し切れない痛さは、少年にも伝わっていたらしい。
またジャージを上から掛けられた。
もう、夜風が涼しい季節だから、ジャージは心地いい。でも、高校生なんだから、夜遅くまで歩いてたら良くないだろう。
でも、言葉がつむげない。
結局、薬が効いて来るまで少年の優しさに甘えてしまった。
*………*
胃の痛みが治まって、気分の悪さも引いて息をゆっくり吐いた。
「気分良うなりました?」
「うん…本当にありがとう」
少年は、隣に座って待っていてくれて、心強いことこの上なかった。
高校生にして女を安心させる、喜ばせる術を持ってるジョン・レノン似の少年は微笑む。
「こんな長くついてて貰って、ごめんね」
かけていたジャージを畳んで、少年に返す。
「気にせんといて下さい。せや、釣り…」
少年が財布を手にしたので、慌てて制す。
「いいって。むしろ私がお駄賃あげなきゃいけないくらいなんだから。取っといて」
少年が目を丸くしている間に、ベンチから立ち上がる。
さっきと比べると大分軽快。おりものが気になるけど仕方ない。
上体だけ捻って、少年に手を振る。
「本当にありがとう。じゃあね!」
歩き出したら、少年に腕をつかまれた。少し焦り気味な顔をしている。
「お姉さん、妊娠の心あたりは?」
「はあ?!」
何、いきなり言ってるの!?
「な…無いけど」
「ほんま?百パーセント無いって誓えます?」
「無いから!バイバイ!」
少年の手を振りほどいたけど、またすぐ掴まれた。
「ちょお待ってって!そんなパンツでええんですか?」
パンツ?
今日はスカートじゃないから、当然バミューダパンツの事だ。
混乱した私を諭すように、少年が困ったように告げた。
「…血ぃ、出てます」
おりものだと思っていたのに…。
恥ずかしい。眉間に皺が寄っていくのが分かる。
この辺で洋服を売ってる所ないかな。ナプキン買わなきゃ。ボトムスも買わなくちゃ。
いろいろと帰りの計算をしていたら、少年が黒いものを押し付けて来た。
「使てください」
少年から渡されたものはジャージのパンツだった。
「え…でも」
「あぁ。汗臭いんは勘忍したって」
「そうじゃなくて。ありがたいんだけど、今日はたまたまここに寄っただけだから、借りられないよ。」
再びジャージを畳み、少年に返す。
でも、少年は手を添えてジャージを押し戻し、微笑んだ。
「予備ありますし。返すんはいつでもええから」
そんな友達みたいな!
いくら少年が親切で徳が高くても、これはお人好し過ぎないか?
ジョン・レノンがいくら平和活動に貢献した人で、いくら慈愛に満ちていたって、少年までこんな無茶な奉仕活動をしなくてもいいんだ。
「そんな訳にいかないよ。私だって、ジョンをここで待ち伏せする訳に行かないし」
「ジョン?」
少年の微笑みは消え、代わりに困り顔になった。
やっぱり体調のおかしい時は、うっかりとしてヘマをしやすいな。くそう。
「…こっちの話。とにかく」
「そう言えば、さっき“ジョン・レノン”言うてましたね」
私を遮って、少年はにやりとした。
私、言ったっけ?でも、胃薬が効くまでは体調最悪だったからな…ヘマなんて幾つもしてるかもしれない。
記憶を辿って、ヘマチェックをしていると、少年がメモ帳を破ったものを、私の鞄に入れた。
「何?」
「返したなったら、連絡ください。ほな」
少年は、ジャージを受け取らないまま背を向け、駅から離れて行った。
「ちょっと!借りないって…」
追いかけようとしたのだけど、少年は足が早く、もう見えなくなっていた。
何も、体調の悪い女相手に、マジで走らなくたっていいじゃないか。
握ったジャージを見つめてみる。
…まあ…、今月苦しいしね。
服を焦って買ってもロクな事ないしね。
……使ってあげてもいいよ…ね。
*………*
駅のトイレで着替えて、買ったばかりの生理用ショーツにナプキンを装着し、電車に乗り込んだ。
途中、席が空いたので、遠慮無く腰を下ろす。
への御礼メールを作成し、鞄に携帯を入れて、少年が押し付けたメモを思い出し、取り出した。
メモには、十一桁の規則正しいのか不規則なのか分からない携帯電話番号と、携帯のメールアドレスと“ジョン・レノン”の文字が書かれている。
…“ジョン・レノン”って…本名な訳ない。
そもそもこんなご時世、本名を書くのは危険である。むしろ書かない方がいいだろう。
…でも“ジョン・レノン”って。
少年に連絡をとるとしたら、生理が終わってからだな。生理中は全て億劫だ。
携帯を再び手に取り、メモの通りに登録した。
電話帳に“ジョン・レノン”の文字が表示されたら、何だか微笑ましい気分になってきた。
拝啓、ジョン・レノン似の少年。
ジャージは丈が長くて、たくさん裾を折ったよ。
確かに、少し汗の匂いがしたけれど助かりました。“勘忍”しておく。
生理が終わったら返すからね。
元ネタ:真心ブラザーズさん「拝啓、ジョン・レノン」
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*…【2007/09/26】…*
名前の変換が友達の名前だけですが…堪忍して!
私は、ジョン・レノンさんについて詳しくないのですが「拝啓、ジョン・レノン」は名曲だと思っております。発表当時は、バッシングする声もあったみたいなのですが、好きだからこそ出てくる批判…もあると思うし、見方を変えれば、いい意味にも悪い意味にもなるのも世の常ではないでしょうか。
ひっそり始めた企画ですが、第一作目で真心ブラザーズさんの曲で書けてよかった。
曲の内容で書くこともあれば、曲名で御題的に書くこともある、管理人の一人相撲企画。楽しみにする人がいるか分かりませんが、次回もお楽しみに!