「土井垣さん、かっこいい」
「土井垣さん、こっち向いて」
黄色の大声が私の周りで飛び交い、気分がとても悪い。
初夏といっても、私の住む地域はカラっと乾いてなんていない。纏わりつく湿気と太陽光線。夏は好んで昼間外に出ない。
相変わらずの黄色の声が苛々を誘う。土井垣ファンの女子たちは、気遣いというものを知らないのだろうか。

しかも、土井垣さんしか応援してないから、他のベンチ入りしてる選手が気の毒にすら思える。

でも、クラスメイトが声を掛けてくれなかったら、私もここには来なかった事を考えると、彼女らと大差はないのかも知れない。自嘲気味に一人笑う。

様々な、女子特有のフローラルな濃い匂いの中で、はたと今考えた事を反芻した。

(…クラスメイト…)

今日のベンチには、クラスメイトが三人入っている。
果たして、里中君や岩鬼君が今日誘ってくれたとして、私は来ようと思っただろうか。

いつも話し相手になってくれている山田君だから、来たんだろう。
私は相変わらず、クラスでは浮いている。
人から、どう思われてもいいと思っていても、一人きりは辛い。

でも、本当に、山田君への義理だけで来たのだろうか。

また、頭に靄がかかってくる。


このグラウンドのベンチに山田君が居て、私も球場に居る。
こんなに人がいるのに、私は山田君としか話した事がない。
そう思った瞬間、言い様のない寂しさと、優越感が込み上げてくる。歓声に身体をもって行かれて、振動に身体を削られる感覚に陥った。
頭の中に山田君の誘ってくれた時の顔が浮かぶ。
いつも通りのテンションに見えるのに、ひっそりと、男の子特有の強気みたいなものが隠れていた。
穏やかな山田君が出した不思議な気迫。
少し気になった。

耳をつんざく、けたたましいサイレンが鳴り、私は湿気とフローラルの混じった空気に戻った。心を奮いたたせる種類の音。私は慌ててグラウンドを見た。明訓が最初は攻撃のようだ。


***



ルールが分からないから、なんで交代するのか理解する頃にはかなりのポイントを見落としていた。
相変わらず、土井垣ファンはテンションが高い。
これだけ人気があるのだから、土井垣さんは相当巧いんだろう。

山田君は今日出るチャンスはあるのだろうか。

折角来たのに、山田君がまともに野球やってるのを見られないのは、残念だと思う。私は、一年生に対して期待しすぎだろうか。
出ないかもという思いが現実的になると、うなだれてしまう。暑いのと日差しで、俯いた。
山田君の妹が打ち付ける鼓の音が歓声に混じって聴こえる。
ほぼ毎日私が野球部を覗いて顔はお互い知ってるせいか、時々目が合う。

もう明訓は割と点を奪われて、周りは途中から投げた里中君が悪いと言う。
山田君の妹は里中君が悪いのではないと叫んでいた。

私にはその辺の、試合の流れの機微はわからない。
分からないけど、山田君の出場だけは、祈っていた。
これだけ点を入れられたのだ。来年の為に、一年生に勉強させる意味でも、山田君を出して欲しいと切に思う。
暑くて試合に集中できなくなって来た。

カキーン。
私の駄目な思考を、更にマイナス方向に持って行くかのように対戦高の白新からヒットが出る。

やっぱり今回、山田君は見られないのだろうか。

場内アナウンスもあまり聴こえない。

そのとき、周りの女の子が騒ぎだした。

負けたのだろうか。
コールドゲームと呼ばれる様な点数には及んでない筈だ。野球について無知な私も、それ位は分かる。

「頑張れ、おにいちゃん」
山田君の妹の声が聴こえた。

山田君が、出る。
暑くて仕方がないのに、皮膚が毛羽立って行く。
試合に出るのは山田君なのに胃や胸が緊張で重く、速度を上げて動いて行く。

***



月曜、先生は仕事始めでブルーなのか、いつもよりネチネチと時間をかけて、私を放課後に説教して来た。
あんまり細かいので八つ当たりかと思った程だった。
玄関を出て空を見たら大きな郡青と、狭くて薄いオレンジの境目が見えた。
陽はほとんど落ちている。
さん」
肺の真ん中辺りが一瞬膨らんだ気がする。
多分、きっと、声の主は…。
「今日は随分しぼられたみたいだね」
やっぱり山田君だ。
「八つ当たりされちゃった」
愚痴を言う顔が、ほころぶ。
「先生も、もう少し時間を考えて指導すればいいんだけど」
「同情してくれるの」
「いや、片付けが終わって帰る時間だから遅いなって思って」
山田君は一年生の中でも、雑用を一通りこなしてから最後の方に帰ってるらしい。帰りがけの山田君と一緒になったのは初めてだ。
「あの先生、私の服とか髪を直そうって必死だよ。勘弁してって感じ。」
説教されて溜まった鬱憤を吐き出した。聞いてくれてるっていう事が笑顔にさせる。
「学校全体で見ても、金髪はさんだけだからなあ。」
山田君は苦笑した。
「そういえば、家までどれくらいかかるんだい」
「徒歩20分くらい」
「迎えは来るのかい」
「来ないよ」
お母さんは保険の掛け方の関係で車の運転を滅多にしない。お父さんはいつも帰りが遅いから、迎えなんて来る筈もない。
「そうか、送るよ」
予想外な事を山田君が言い出した。
部活が終わって疲れてる筈の山田君に、更に疲れる事はさせたくない。
明日だって、部活はあるのだ。
「大丈夫だよ、いつもの道だし。」
山田君が少し眉をしかめて制した。
「そんな訳にいかないよ。女の子が夜道を歩くなんて、ただでさえ危ないんだから」
高校に入ってから初めての女の子扱いに、不覚にも耳が熱くなっていく。
「…ありがとう」
照れて口が回らなかったので、不明瞭な“ありがとう”を言ってしまった。
山田君は、返事の代わりに少し口角をあげる。
夕日すらすっかり沈み切った闇の中で、私たちは歩き出した。

「今日はお弁当、どこで食べたの」
今日の昼休み、山田君は教室に居なかったのだ。
「里中君と中庭で食べた。」
「そっか、部活同じだったもんね」
不意に、昨日の山田君の試合の様子が脳裏に浮かんで来た。負けてしまうと思っていたのに、山田君が出てから試合の流れが変わり、明訓が逆転して勝利を掴み取った。技術的な事は分からないけれど、あの流れは山田君が作ったんだと思う。
一人で球場から帰る時胸がいっぱいで、嬉しいのに切なくなった。
きっと、練習もろくに出来なかったのに文句も言わず人よりも雑用をして、チャンスが来た時にはしっかり捕手を務めた山田君から、最近忘れていた頑張るっていう事を見せて貰っていたからだ。
そこを行くと、最近の私はたるんでるしダメ人間街道を少しずつ進んでいるという事を直視してしまった。
もし、このままダメ人間になっていったら真面目で実直な山田君はいつか口をきいてくれなくなるのだろうか。

いや、止そう。
人は離れていく事が多いのだから、今を快適に過ごさなくては。

暗い考えを振り払うために、朝から言おうと思っていた事を口にした。
「試合見に行ったよ、おめでとう」
「ありがとう、サチ子からも聞いたよ。」
サチ子ちゃんは山田君にはあまり似てなくて、最初見掛けた時は兄妹だとは気付かなかった。今でも、見掛ける度、似てないと思ってしまう。
「前に、サチ子ちゃんが言ってたよね。'おにいちゃんは皆より野球が巧い'って。野球知らなくても昨日の試合見てて分かっちゃった」
素直に思った事を口にする。案外、恥ずかしい。こっ恥ずかしくて、顔は赤くなっているだろう。薄暗いから判りにくくて、それが救いかも。

ブッブー。

歩道と車道のハッキリした境のない道なので、山田君が白線からかなりはみ出てしまっていた。進行方向から車がゆっくりと向かって来る。
私たちは一旦立ち止まり、山田君は 落ち着いて道の端に寄った。
車が近付くにつれてライトの光が、ハッキリと私たちを捉える。
照らされた中、山田君を改めてみると山田君の頬も。耳も。
ほんのりと赤らんでいた。
昨日の試合で、日焼けはしたみたいだけど、腫れてはいなかった。きっと、血の色で紅いのだと思う。

山田君は、車を見送る様に元来た道を振り返っていた。
私も顔の熱が引かないが、山田君もまだ紅いのだろうか。
私の顔の熱は、山田君の紅くなった頬や耳を見て何故かまた上がってしまったのだが。

車の影が小さくなったら山田君が私の方を向いた。
「行こうか」
閑静な道をまた歩き出した。
この先50m位は控え目な街灯しかない。この時間に一人で帰ると不安だけど、今日はそれがいい。

前の私なら'照れてるでしょ'とか茶化したりしてたと思う。でも今は、そんな事言う気が起きない。薄暗くて表情の見えない中、山田君をさり気なく見ていたいのだ。だから、山田君の顔色が紅くなってた事には気付かないふりをする。
普段明るい中では気まずくて、じっと見られない山田君を直視してみる。
首は太くて短いけど、弛みがない。脂肪ではなくて、筋肉なのだろうか。

山田くんが少し宙を仰いだ。
「そういえば、さんはなんで明訓に来たんだい」
少し、胃に重たい感覚を覚えてしまう。
「なんで、そんな事きくの」
心臓が大袈裟に膨らんだ。
「最近、さんと話してて不思議に思う事があるんだ」
山田君は薄暗い中で、私を見つめる。表情はいつも通り柔らかいのに、私の目の裏や脳まで見つめていそうな目線だった。
表情から分かる事以外も測られそうで目線を逸らした。
「面倒くさいのは嫌だって言いながら、不便な事の多い金髪だからさ。明訓より校則の緩い学校にも入れたと思うんだ。」
山田君特有のさっぱりとした表情は変わらない。だけど、言葉には不思議と柔らかさがこもっていた。
そんな山田君の言葉で、さっきまでの重い気分が和らいだ。
思い切って言おう。
「山田君は、彼女居たっけ」
少し訝しげだけど、山田君も答えてくれる。
「いや、居ないけど」
一瞬、胃の不快感が軽くなった。なんだか今、すごく安心してる。
「そっか。私は、二月位まで居たんだ」
山田君が少し口をあけて、意外そうな顔をしてる。こんな変な髪型の女に、彼が居たとはなかなか思い付かないと思う。
「驚かないでよ。その時はストレートで黒髪だったんだから」
「今のイメージが強いから、想像出来ないな」
山田君は少しポカンとした顔をしてる。そんなに意外だったのだろうか。
「彼氏と同じ高校を受けたんだけど、別れちゃって。もう一個受けた明訓が受かったから、明訓に来たの。」
山田君は、まだ腑に落ちないような表情をしている。
「でも、髪はそのままだった方が楽に生活出来たんじゃないのかい」
確かにその通りだ。先生に注意される事も、内申が下がる事もない。生え際と、染めた部分のコントラストだって気にしないで生活出来る。
でも、まだこの髪は直そうと思えない。
「彼氏の浮気相手が仲良しグループの子だったの。」
山田君は少し気まずそうな顔をしている。
なんで急にこんな話するんだろう、みたいな事を思ってるんだろう。
「友達じゃなかったらこんなにショック受けなかったのに。」
山田君は、あの表情以外も見抜きそうな目でみている。黙ったまま。
「だから高校じゃ、グループに入らないって決めたんだ。この格好なら滅多に話しかけられないし」
山田君は少し間を置いた後'そうか'とだけ言った。

暖かい風が私達の間に吹いた。
月はさっきより、くっきり見えている。

「山田君は、こういう子は苦手なのかな」
前から少し気になっていた事を、聞いてみた。
「こういう子って」
「私みたいに校則違反する子」
ドキドキする。もし、はっきりと苦手と言われたらどう応えよう。

山田君の口許から目が離せない。
私の考えをよそに、山田君が笑って答えてくれた。
「そんな事ないよ。」
知らない内に噛んでいた唇が、糸切り歯から開放された。
「本当に。」
「うん。少し驚くけど」
ほっとして、口許が緩む。

そこからは口数が少なくても気まずくなくて、暖かいものが私の中に流れていた。
足取りはリズムを刻めそうな気分だ。


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