しばらく歩いて、私の家の屋根が見えて来た時、山田君が話し掛けてきた。
「今度の日曜も、試合があるんだ」
胸が踊るとはこの事だろうか。
「…うん」
口角があがる。
「また、応援に来てくれるかな」
野球のルールは分からない。
でも、山田君がまた誘ってくれた事にホっとしている。
確かに私は、今、嬉しいドキドキを感じている。
「うん、必ず行くね」
「ありがとう、頑張るよ」
この前誘ってくれた時の顔つき。こういう強気な表情を見るのは好きかも知れない。元彼は頼れそうで逞しい雰囲気は無かったから、男の子のこういった表情はとても新鮮に想えた。
優しい沈黙。
言葉はないのに重くない。
順調に、そして軽やかに、家までの足を進めている。
もう少し家が遠かったらいいのにとか、不謹慎な事を考えてしまった。
それでも、私の家は近付いてくる。
家を見ると人影があった。門の前に、立っている。
家に明かりは点いてるのに、門の前にただ立っているのだ。
怪しい。泥棒だろうか。
さっきまでの宙に浮ける様な気分から一転して、血の気が引いて行く気がした。
「さん、どうしたんだい」
山田君が私の変化に気付いたのか歩みを止めてくれた。
「山田君、家の門の前に人がずっと居る」
「あの家がさんの家なのか」
眉をしかめて、門の前を見てくれる。
「僕、話を聞いて来るよ。もしかしたら、なかなか尋ねられないだけかも知れないし」
'でも、悪いよ'
喉まで言葉が来てるのに、口が動かない。
'山田君、試合にでるかも知れないのに'
山田君だけ家に、ゆっくりと近付いて行く。
一歩、また一歩…。
'せっかく頑張ってるのに、怪我したら元も子もないじゃない'
いつもあんなに、誰よりも真摯に部活に取り組んでるのに。
'ここで怪我させたら、私、後悔しちゃう'
「山田君」
必死に叫んだ。
山田君を止めて、私でなんとかしなくては。
数Mしか離れて無いのに山田君をダッシュで追いかける。
山田君は驚いたようで、私を見ると、マズイという顔をした。
山田君を押し退けて前へ出る。
「家に何かご用ですか」
お腹に力を込めて、ナメられないように睨み付けた。
門の前にいた人がビクついて私達の方を向いた。
「」
元彼のだ。
「何しに来たの」
せっかく別の学校に行ったのに、なんで来るんだろう。
お互い良い最後では無かった筈なのに。
「知り合いかい」
山田君が私達の顔を交互に覗き見た。
「誰、コイツ」
が何故か、失礼な言葉遣いと挑む様な目線で山田君を見た。山田君はいつも通りに涼やかな表情のままだけど。
「山田君にコイツとか言わないで。何しに来たの、本当に」
は山田君から視線を外し、私に向き直ると、急に頭を下げた。
いきなりの事で、頭が軽く混乱した。
「ヨリ戻して下さい」
一瞬、頭が真っ白になった。
何を言い出すんだ。
腹が立ってきた。
「彼女と別れた」
この期に及んで、まだ私を振り回すのか。
「毎日の事を考えてる」
やめて欲しい。
「俺、次はの気持ち、絶対待てるから」
別れたから、次は私。都合が良過ぎる。
喉から顎が震えて来た。
生まれて初めて、怒りながら震えている。
「もう、に気持ちなんて無い。帰って。」
一息で言い切って、を睨み付ける。
「今、気持ちがあるのは、コイツだって言うのか」
が山田君の腕を掴んだ。山田君は少し戸惑ってる。
腕を掴むなんて、もし、部活に影響したら…。また血の気が引いていった。
「山田君に乱暴な事しないで。とにかく帰って。」
の腕を山田君から払い除けて、精一杯に怒鳴りつける。
は一瞬怯んで、後ずさりをした。
「…また電話する」
気分の重たくなるセリフを吐き捨てて、は走って行った。
大きく息を吐く。
生まれて初めて思い切り怒った。
足から力が抜けて、立っていられなくて、門に寄り掛かる。
私、あんな大声出せたんだ…。
「さん、大丈夫かい」
山田君を見たら、少し心配そうな顔をしていた。
「大丈夫。足に力が入らないだけ。力抜けちゃった」
笑いが込み上げてくる。なんだか可笑しくて、笑い声が零れた。
「歩けるかい」
「フフフ…寄っ掛かるだけで精一杯」
急に山田君が私に背を向けて、しゃがみ込んだ。
「どうしたの」
「歩けないんだろ。乗って。」
「でも、悪いよ。少しすれば多分歩けるから、山田君は帰っていいよ」
これ以上、山田君の帰宅時間を遅めてはいけない。
「同じ休むなら家の中の方がいいに決まってるじゃないか。」
山田君は、動く気配がない。
私を家に入れるまで山田君は帰らないだろう。力の入らない足なので、バランスが取れず山田君の背中に思い切り倒れ込んでしまった。
「ごめん、痛かったかな」
私の足を抱えて、山田君が立ち上がる。
「大丈夫だよ。さん、軽いね。」
山田君は私の鞄も持って、立ち上がった。
山田君の背中に顔を預ける。
暖かくて、ほんの少し汗の匂いがした。
「汗…」
山田君が一瞬ビクりとしたのが、振動で判った。
「ごめん、Yシャツも替えた方が良いかな」
顔は見えないけど、耳が赤い。
「謝らないでよ。」
嫌な匂いとは思えなかった。
「山田君が頑張ってる、いい匂いだよ。」
山田君は無言だけど、引いてないと思う。今の沈黙は優しい空気をまとわせてくれる。
門を開けて、ゆっくり歩き出した。山田君の背中に乗って居られるのは5歩もないだろう。
とても短いけど、暖かい時間。
だから忘れないように、空気を深く吸い込んだ。
「ただいま。お母さん」
玄関に入っても、山田君は私を降ろさずにおぶったままだった。
一人では歩けないので、お母さんを呼んだ。
「、今日は遅かったじゃないの」
パタパタとスリッパを鳴らしてお母さんが出てきた。
「こちらの方は…」
お母さんが山田君をマジマジと見る。
「初めまして。さんと同じクラスの山田太郎と言います」
山田君はお母さんの視線に構わず、挨拶をした。
「の母です。初めまして」
お母さんも、山田君に自己紹介をする。
「どうしたの、おんぶなんてして貰って」
洗い物をしてたのか、エプロンで手を拭きつつ尋ねられた。
「腰が抜けちゃって歩けなかったから、山田君がおんぶしてくれたの」
「まあ。わざわざごめんなさいね。ありがとう」
お母さんは山田君から私を受け取り、肩に手を回した。
「いえ、そんな」
山田君はかしこまっている。
「お茶でも召し上がってって言いたいところだけど、山田君のご家族も心配なさるわよね。」
お母さんは私に肩を貸しながら顎に手を当てて首を傾げた。
「だからお休みの日にでも、必ず遊びに来てね」
「そうですね。休みの時にお邪魔します」
お母さんが、笑顔て誘うと山田君も笑顔で応えてくれた。
山田君がドアを開けて、玄関から出たら一礼した。
「じゃあ、おやすみなさい」
「山田君」
何故か、山田君が帰るのが惜しくて、呼び止めてしまった。
「何だい」
山田君は一旦私を見る。
「ありがとう。気をつけて帰ってね。」
引き止めるような事なんてない私は、ドギマギしながら、普通の事しか言えなかった。
「うん、また明日。」
山田君は、また笑顔になってドアを閉めた。
お母さんはホウと溜め息をついた。
「あの子、しっかりしてて挨拶も出来てるのね」
そして、私を見ると満面の笑みを浮かべた。
「今ののいい人なの」
何を言い出すのか。
「違うよっ」
心なしか体感温度が上がった。
「あら、そう」
お母さんはにやつきながら、返した。
「さっき呼び止めた時の顔、大人っぽい顔だったのに」
「えっ、そんな事…」
「やだ、お芋茹でっ放し」
反論しようとしたら、お母さんは意地悪く芋の話を持ち出す。
私は半ば引きずられるように食卓まで向った。
その日の夕食は、お母さんの質問責めにあって、なかなか食べ終わらなかった。