その日、私は家業の定食屋の出前で近所の工場に来ていた。
その工場は評判が悪い。普段から睨みをきかせた男達が働いていて、父は私を出前に行かせたがらなかった。
でも、店も出前も切り盛りしてこその定食屋だ。父が居ない間、父しか出せない品を注文されて、お客を待たせる訳にいかない。
小さな店だから、せっかく受けた出前だっておろそかに出来ない。
だから、私が父を説き伏せて出前に出た。
「出前にきました。亭です」
「お、ご苦労さん」
守衛の人に挨拶して、オカモチから弁当を取り出す。うちは、出前の時は弁当箱に料理を詰めて運ぶのだ。その方が、運びやすいからである。
「あ、ごめん。注文したのは、ここじゃないんだよ。右行ってすぐの建物」
なんだと。そんな内部なんか、怖くて行けないじゃないかバカヤロウ。お前が行けばいいじゃねーかよ。…と心の中で何回か毒づくも、すぐに笑顔を取り繕う。
「かしこまりました。」
コレを置いて帰るまでは笑顔でいなければ。
歩いていて、何人か恐面の人と擦れ違う。
そのたびに“こんにちは”と挨拶しつつ、心は震えていた。
歩くうちに、守衛さんの言った建物に行き着く。
「すいませーん、亭でーす」
なかなか人が出てこない。
もう一度、声を張り上げる。
「すいまっせーん」
やっぱり出てこない…。
普段はなかなか出て来ない位では怒らないけど、今日は守衛さんの態度や、恐面の人と擦れ違って肝を冷やした事もあって苛々してきた。
舌打ちをして弁当を置き、踵を返す。玄関を出て、早足で出口へ向かう。出口が見えたところで、恐面の人が目に飛び込んで来た。
私の怒りは急速に鎮まって行き、代わりに胃の中から不安が沸いてきた。
どうしよう、亭の出前は愛想が悪いとか、営業に関わる噂を流されたら…。それはまずい。それは避けたい。
元来た道をまた引き返した。やっぱり、誰かに弁当を置いた事くらいは伝えるべきだ。
昼休みだから、誰か昼寝してる人くらい居るかもしれない。玄関で人が出て来なかったから、庭にまわる。
縁側には、作業服を着た銀髪の男の人が座っていた。ただ座っているだけなら、すぐに言伝を頼んだだろう。だけど、その空気を壊してしまうのは勿体なさすぎた。
ハッキリ言うと、彼は大変格好よかったのだ。
彼の格好よさに身体から力が抜けていってしまう。
ゴトリと、オカモチを落とす。
銀髪の人がこっちを見た。
「出前の方ですか」
「あっ、はい。亭です」
慌てて名乗った。
「そうですか、今、見ての通りみんな居ないんですよ」
彼は“困ったな”と顎に指をあてている。その仕草も格好よくて、また慌てた。
「大丈夫です。お弁当は玄関に置きました。お代は、弁当箱を回収するときで結構ですから」
彼は宙を仰いだ後に、キリっとした顔を私に向ける。
「わかりました。きちんと伝えます」
その顔に、私は不覚にもときめいてしまった。水から出された魚のように、丸く口を開けていたと思う。彼の格好よさが私の時間を止めてしまったのだ。
「あの、気分が悪いんですか」
気付くと、固まった私を心配したのか、彼が目の前にいた。その瞳が、また形がよくて…“ぎゃっ”と唸り声をあげて尻持ちをついてしまった。
「大丈夫ですか」
私の腕を掴み、引っ張ってくれた。
嗚呼、ダウシヤウ。格好ノ好イ殿方ニ優シクサレルノハ生マレテ初メテダ。
一瞬ヒートしてしまい、思考が変な言葉になった。頭の中は脳みそではなくて、溶岩みたいな暑いゼリーが流れているんだろう。
「何が初めてなんですか」
「え」
「今、おっしゃってましたから」
どうやら私の溶岩は、脳を伝って口から流れ出たらしい。とんでもない羞恥が私の身体を包んだ。
「あ…いえ、独り言ですからっ」
私はオカモチを振り回しながら、その場から走り去った。
家には、行きより速めに走って帰った。必死に走っていないと、熱を使いきれなくて、熱がたまって血液が沸騰すると思ったから。
「ただいま」
「おう。、遅かったじゃねえか」
「うん、中まで届けたから」
父は、調理場から顔をあげて私を迎えた。我が亭は、台所とカウンターが繋がっていて、店内が見渡せる。見渡せるとか言っても、小さな店だけど。
「そんな顔真っ赤にさせるまで走って来なくたって、俺様なら一人で店回せるっつーのによぉ」
父が余計な事をぶつくさ言っている。いつもなら反論するけれど、今日は言い返せなかった。父にも分かるくらい真っ赤なのは、あの格好いい人のせいだという事は悟られたくないから。
「どうした、。具合悪いのか」
さすがに勘がいい。こんな時は早々に引きこもるに限る。
「あー…なんか調子よくないかも。もう寝ていい?」
父は、自分で言うだけあって、出前で居なくなる時以外は店を何とか切り盛りしていた。
「ちゃん、ゆっくり休みな」
「ちゃんが店に出ないと、楽しみが減っちまうよ」
常連のお客さんが声を掛けてくれた。
うちの店はお客に恵まれていると思う。常連の人はよく来てくれるし、よく新規客も連れて来る。そのお客さんもまた来て、友達や家族を連れて…というサイクルが出来ているのだ。それは、父の長所と、値段がそうさせてるのだろう。コンビニやスーパーより、当然美味しくて少し安い。定食を三〜四百円台で立派な量と質で提供しているから、そりゃあ出来合いより作り立ての亭に来るってもんだ。
“ありがとう”と常連のおじさん達に笑顔を向けて、自室に入った。
部屋で白衣を脱ぎながら、あの銀髪の男性の事を思い出した。
そういえば格好いい男性はおろか、あれくらいの年の男性に声を掛けられたのも初めてだった。寺子屋では同い年の男子と後は先生しか話した事はなかったし。
生まれて初めて、格好いい男の人に優しくされた日…しばらく覚えておこう。
次の日…。
「、起きろ。お天道様はもう起きてるぞ」
父の声で目が覚めた。眠気であまり身体の自由がきかない中、時計を見ると、いつもより二時間程早かった。父は仕入れで早起きするから、この時間に元気なのは当然だけど…。
「まだ五時じゃん。父さん、ボケてきたの。私、いつも七時起きでしょ」
そう言って肌掛けにまた身を包もうとしたら、父が肌掛けを引っ張った。
「ボケてなんかねえよ。悪いけど、今日からこの時間に起きてくれ」
「何でよ」
「昨日の工場から、弁当の注文が来てよ。かなりの大人数分あるから、にも手伝って貰わねえと捌き切れねえんだよ」
「…出前は?」
気になった。頭をよぎったのは、昨日の銀髪の男の人の事。
「すぐそこだし、台車使えばなんとかなるだろ。俺が行くからよ」
「それじゃ居ない間にお客さん来たら申し訳ないじゃない。出来たてを運ぶんでしょ」
「でも、若い娘が野郎だらけの工場に行くなんて心配でよ」
「お父さんは過保護だよ。そんな工場でどうにかなる奴なんて居ないって。」
「でも、用心するに越した事は…」
まだグダグタ言うか。私は早口で、父をたしなめる。
「お店に来てくれた人だって大事にしなきゃ。私が出前に行く方がどっちも大事に出来るでしょ。プロ意識、プロ意識。」
「うっ…」
ざっと身なりを整えてから、いつもより慎重に調理をする。私は簡単な下ごしらえしかしないけど、量がかなりあるので、どれもおろそかにしない様に気をつけてやった。
最初も、結構肝心。
「おい、。本当に出前行くのか」
「…大丈夫だって。これ以上ウダウダ言うなら、本当に怒るよ」
まだウジウジと話し掛けて来る父を、早口でいさめる。父一人子一人だから、心配な気持ちも分かる。分かるから、私も、父を置いて嫁ぐなんて全く考えてない。だが、仕事で損得勘定が出来ない様では困るのだ。
「こんにちは。亭です」
「お、ご苦労様。」
昨日と同じパターンで工場内へ。お昼のベルが鳴る前には、宿舎に届けておかなければいけない。そして、お代も月毎にまとめてではなくて、その日ごとに受け取る。
注文のあった分を、一気に台車で運ぶからかなり集中して歩いている。歩きでも、エクササイズに匹敵するくらい疲れるかもしれない。
「ちょっと」
「はいっ」
いきなり声が降って来て驚いて、裏声で返事をした。声のした方に向くと、昨日の銀髪の人が立っていた。
「出前、お疲れ様です」
「あ、ありがとうございます」
「手伝いますよ、どいてください」
「いえ、お客さんに手伝って貰うなんて、そんな…」
「女性が重いものを運んでるのを見過ごすなんて、そんな」
銀髪の人は私のセリフを真似た。真似てもらった事で、お客さんに手伝って貰うという罪悪感が薄らいだ。
「毎日、こんなに運ぶんですか」
「はい」
「大変でしょう」
「まあ、大変ではありますけど。最善策なんで。」
「そうですか」
さすが男の人と言うべきか。振動も少なくすんなりと宿舎まで運んで、お弁当も効率好く台車から降ろしてしまった。
「はい。昨日の分も入っています」
懐から茶封筒を取り出し、差し出された。
「毎度ありがとうございます」
笑顔で茶封筒を受け取る。
「お名前を伺っていいですか」
「です。」
「さん…覚えます。僕は坂田銀時です。」
坂田さんって言うのか。
「僕、弁当係なんで。宜しくお願いします」
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